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映画「大決戦!超ウルトラ8兄弟」 [VISUAL&ARTS…観る。]

「大決戦!超ウルトラ8兄弟」製作委員会(円谷プロダクション 他)
監督:八木 毅 脚本:長谷川 圭一 主演:長野 博

ちょっと、と言うか、相当恥ずかしいタイトルである。
円谷プロが「ウルトラマン」という「文化」を常に子供を対象として提供していることの表われとは思っているが、それにしても…
しかし、主役は平成3部作「ティガ」のダイゴであり、自ら夢を諦めようとしている「大人」へのメッセージを込めた物語である。タイトルこそは子供向けだが内容は昭和40年代から現在までの「すべてのウルトラ世代」に向けたものであった。
もともと「ウルトラシリーズ」は子供向けに作られたものではなかった、と思う。空想科学ドラマ、SFとして、世のセンス・オブ・ワンダー好きのための物語が、その荒唐無稽さから子供たちの絶大な支持を得、はかり知れない影響力を与え、多くの子供たちがその後オタクへの道を突き進んだ…のは置いといて。
第2次ウルトラブームの頃からは、シリーズを重ねるごとに、すでに出来上がっていた「巨大ヒーロー・怪獣もの」=「子供向け」の図式に嵌り込んだか既に「大きいお友達」となっていた世代は苦笑まじりに観てはいたが、それはそれで常に新しい「ウルトラ世代」を生み続けていた。
平成3部作のあと、試行錯誤をしながら様々なパターンのシリーズが作られていったが、その集大成とも言うべき一昨年の「ウルトラマンメビウス」。これまでの、言ってみればある種トンデモナイ、「ウルトラ兄弟」と言う設定をすべて受け入れ、帳尻を合わせ、練り上げられた壮大な世界観、それが称賛を持って迎え入れられたのは記憶に新しい。

さて、今回の設定はさらにパラレルワールドである。平成3部作のうち「ティガ」と「ダイナ」は連続していたが「ガイア」はまったく別の世界であったのを、「ガイア」終了後の劇場版にて同一世界に登場させたのと同じ手法だ。
一昨年の映画「ウルトラマンメビウス&ウルトラ兄弟」ではすんなり登場できた旧ウルトラマンだが、今回は「兄弟」ではない3部作のウルトラマンとの共演であるので簡単に世界はつながらない。それが他の並行宇宙のまったく違う世界の「記憶」を呼び起こす、と言う荒業により実現する。

舞台である「世界」は現実世界と同じように「ウルトラマン」が空想ドラマとして放映されていた世界。昭和41年にすでに小学生くらいであるダイゴたちがまだ演者と同じ30代前後に見えるので、今から15~20年くらい前になるのだろうか。
謎の少女の言葉に導かれ突如現れた侵略者を追って時空間移動をしてきたメビウス=ヒビノミライ。そのピンチ、また世界の危機に「覚醒」する旧ウルトラマンたち。世界と言いつつも舞台である横浜の狭い地域での攻防ではあるが、身近な愛する者を護るため、そしてそれは封印しかけていた自らの夢を実現するための勇気を試される試練という、解り易くも感情移入し易い展開である。

昨年の映画の成功も手伝ってか、まさにオールスター。基本オトコノコの物語なのだが、それぞれのパートナーが勢揃いするとは。そこで気づく。そうだ、ウルトラマンって、ある種の恋愛モノだったんだ~! 魅力的な女性陣はもっぱら支え役ではあるが、みな精神的に自立している。そこらへんも彼女たちの魅力だったんだなぁ、と特に綺麗に歳を重ねている4人に再認識。見習いたいものである(笑)。

セリフ回しや登場人物に盛りだくさんのファンサービス。過去の映像は最小限なのに、オールドファンから若いファンまで「おっ♪」と思わせる設定・映像がちりばめられている。新しい映像を観ているのにとてつもないバックボーンが観る者のなかにあり、記憶がそれらを補完していく、まさに「ウルトラ」ファンのためのお祭り作品なのであった。

観終わって思う。
「ウルトラマン」とは「愛」と「肯定」の物語なのだな、と。
大切な人や世界を護ること、それがシリーズすべての根底にあり、また自分を信じること、正義を信じること、諦めないこと、一貫してブレない主張がある。そこが連綿と続くシリーズの魅力であると同時に、この作品においては、製作者側をも取り込んだ大きな「ウルトラマン」そのものへの「愛」と「肯定」による賜物なのだ、と今更ながら思うのであった。
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映画「落下の王国」 [VISUAL&ARTS…観る。]

原題 The Fall (2006 アメリカ)
監督:ターセム 主演:リー・ペイス

世界遺産を舞台に鮮やかな色彩の乱舞。
すべてロケという、CG全盛の世の中に、金より大事な「時間」を掛けた贅沢な映画である。

よく次に観る作品を選ぶときに、映画館での予告編やフライヤーで目を引くもの、となるのだが、この作品は、なぜか前情報が得られなかった。上映館情報でタイトルを見かけ気になって、邦題だけで19世紀ころの不条理系ファンタジーかな、という薄いイメージを持った。去年観た「パンズ・ラビリンス」のような残酷な美しさを持つ作品かな、とも。しかし、似ているようでちょっと違う、カラッとした色彩鮮やかな空想世界が目の前に…。

舞台は1915年アメリカ。物語はとある娯楽映画のロケ中の様子から始まる。失恋の痛手から自棄的になり、高所より<落下>した際、復帰も危ぶまれる大怪我をしたスタントマン・ロイ。撮影中の映画の場面と現実の事故の様子が入り混じるのはこれから先の物語の暗示か。不思議ファンタジー?との先入観がまず軽くいなされる。
本編は入院先の大きな病院へと場面を移し、腕を怪我した少女アレクサンドリアを中心に物語が進んでいく。父を失い移民としてオレンジ農園で働く母のもと、彼女は5歳にもかかわらず収穫の手伝いに木に登り、そこから<落下>したのだ。
好奇心旺盛な利発な少女は、腕の怪我ということもあり、じっとしていられない。探検ごっこのように病院内をうろうろし、お気に入りの看護師に書いた手紙を2階から<落下>させてしまい、探しに降りたところでそれを拾ったロイに出逢う。想像力豊かなアレクサンドリアと遣り取りするうち、動けないロイは自殺の企てに彼女を利用するために、彼女の気を惹く「物語」を始める…。
「物語」はまったくのロイの思いつきだ。それをアレクサンドリアが頭の中で補完していく。豊かな空想力は、語り手にも還元され、やがて「物語」は共有されていく。

鮮やかな映像はアレクサンドリアが思い描いている世界である。なんでもありな空想世界なはずだが…美しい現実離れした舞台(ロケ地)が実は世界各地に現実にあるものなのである。また、語られる物語は整合性など無縁な思いつきによる荒唐無稽なものなのだが、そこに幼いながらに辛い経験をもつ彼女の記憶がトラウマのように投影され、「死」のイメージとともに残虐性をも帯びるリアリティが追加される。それが煌びやかさとは違う乾いた美しい鮮やかさを下地のように際立たせるのだ。

「物語」は死を焦るロイの苛立ちやアレクサンドリアの戸惑いとともに思わぬ方向に展開していく。
しかしアレクサンドリアの再度の<落下>を機に、ロイの中のわだかまりが解けていく。
空想の「物語」の中にも<落下>のモチーフは散見される。しかし、言葉に囚われて不条理に突き進むことなく、明るいアメリカの空の下、物語は幕を閉じるのだ。アレクサンドリアの無垢な笑顔を残して。


映画公式サイトはこちら
2008.9.28現在、東京近郊では上映が終わってしまいましたが、まだ観られる地域もあるようです。
是非映画館の大きい画面で観てみてください。
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東山魁夷展 詩と旋律―遍歴の山河 [VISUAL&ARTS…観る。]

東京国立近代美術館 2008.3.29~5.18

――目の前に現れた光景…まさしくそれは海であった。
遠く潮騒すら聴こえてくるような。
唐招提寺障壁画、「濤声」。

東山魁夷の絵と言えば国語の教科書で見たひとも多いだろう。
またホテル・銀行等のロビーでお目にかかったひともいるだろう。
叙情的であり精神性に富む作品群は現代日本人の感性にダイレクトにヒットする美学を持っている。印刷されたものはイラストレーションの趣きも否めないが流石に生の作品は訴求力も強い。観覧した昨夜4月18日は朝からの大嵐であったが、夜間開館の閉館1時間前でも多くのひとが来場していた。
大きな絵でも至近距離で佇むひとが何人か。
まるでその世界、その作品の醸す空気に包まれたいとでも言うように、しばし動かぬひと。
静謐でありながら観る者が世界に入り込もうとするのを拒まないのは、作品の持つ力であろうか、そこに居るような錯覚を感じさせるのは、抑えた色数ながら内に引き込むだけでなく外部に向かう華やかさがあるせいだろうか。

生誕100年、没後10年という記念の年。
初めて魁夷の作品に触れたのはいつだったか。まだ10代だったはず。
日本画でありながらヨーロッパ的な(実際北欧・ドイツに取材した作品ではある)、まさに精神世界、心象風景のような作品たちにまぎれもなく直撃されたわけであるが、自分も歳をとってみるとむしろ「京洛四季」連作のほうがしっくりくる。
いずれにせよ現代日本画と言うある種装飾的意匠をとりこんだジャンルならではの表現方法は、単純な「画」であるからこそ力量が問われ、またそれゆえに見る者の「こころ」に直接飛び込んでくるのだろう。
展示は大回顧展ということで点数も多かった。そして展示の最後に冒頭の障壁画。
これだけを観に、もう一度行ってみてもチケット代以上の価値はあると思う。(我ながら卑近だが…)

公式ホームページ→こちら
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ちょっとしたお知らせ。 [COFFEE BREAK…独り言。]

ここのスペースをお借りしているソネットブログが、このたびのリニューアルで1IDで複数のブログを作成できるようになりました。そこで、更新してないメインサイトのうち唯一更新していた、読んだ本を並べて置くページ「魔女の本棚」をブログ化することにしました。

「魔女の図書室」http://sabatosera-bookshelf.blog.so-net.ne.jp/

こちらのカテゴリ「魔女の本棚」の書評(もどき)、日記サイトのカテゴリ「本読みの御託」の駄文と合わせて、行きつ戻りつ立体的に、お気に入りかつ境界探索のための書籍をご紹介できたらと思います。
(…これによりメインサイトはますますインデックス化進行中。)

映画「潜水服は蝶の夢を見る」 [VISUAL&ARTS…観る。]

原題 Le Scaphandre et le Papillon (2007 フランス=アメリカ) 
監督:ジュリアン・シュナーベル 主演:マチュー・アマルリック

目が覚めたときに見えるもの。
これまでの自分とは違う自分。

「いのち」は「重い」と言われる。
しかし「いのち」ほど「軽い」ものはないのではないだろうか。
風船に詰められた気体、それが「いのち」なのでは、と思う。
水素のように、ヘリウムのように、軽いモノ。
肉体という被膜が破れたとき、死が訪れる。
まれに気体の抜けたガワだけの風船もあるかもしれない。
重いはずの「いのち」は実はあまりにも呆気ない。

主人公は実在の人物。瞬きだけで綴ったエッセイが原作。
「潜水服」はまるで動かなくなった肉体だ。しかし表現する手段を得た彼は「蝶」のように想像力を羽ばたかせる。硬化したゴム風船の中にある軽い軽い気体。それは魂の自由とでも言えるか。

彼は成功者だった。やりたいことを実現させてきた。
しかし、どんな人間にも避けられないもの、それが死。
でもそれ以前に、ひとは一人で生きているのではない。
「家族」と言う不思議な縁がある。
縁とはもちろん血縁だけでなく、友人知人通りすがり、いろいろな関わりはあるが、「家族」とはまったく別なのだ。「家族」と言う「縁」はいかに絶縁したつもりでも切れないものだ、と思う。特に親の存在は。捨てられない絆。それは自分が「老い」を感じて初めて「ほんとうに」気づく。
倒れる前後を通して描かれる彼と彼の父親の関わりは、ストーリーのほんの一部ではあるが、そんな無償の何かを通して「生きていく」と言うことを語りかけてくれる。そう、いかなる人生も「生きていくこと」そのもの。親から子へ伝えられていく何か。彼が父から受け取ったものはまた彼の遺児へと伝わっていくのだろうか。生物としてのヒトの持つ、「いのち」のリレーとして。

それにしてもこの映像の美しさは。
美の国フランスであるゆえか、アーティスト監督の卓越したセンスゆえか。そもそも「美」の世界の住人であった主人公(世界的ファッション雑誌編集長)のセンスさえも伝わってくるようだ。
そして、ひとつひとつの視点のもつ意味が、移動していくさまが、主人公への共感を生んでいく。また、病院スタッフ特に介護にあたる者の描かれ方は、もともとの原作者である主人公の「目」ゆえか。彼らと一緒にいる時間は観客という一傍観者にとっても楽しくさえあったのだ。ひとも絵も、「美しい」ものがたりであった。


原作本はこちら。私は未読です…。
潜水服は蝶の夢を見る潜水服は蝶の夢を見る 
作者: ジャン=ドミニック ボービー
出版社/メーカー: 講談社
発売日: 1998/03/05
メディア: 単行本


青い夜。 [MARGINAL…境界にて。]

雲の多い夜だった。

11月も半ばと言うのにまだ寒さを感じることもない、今年の夏のとてつもない暑さが嫌でも思い出される微かに残った余熱のような暖かい夜。ちょっとばかり熱めの会話と選りどりみどりの家庭風中華料理を一通り楽しんだ後、先輩方と別れてふと、すっかり暗くなった夜空を見上げた。
雲が多いと言っても空全体を覆う厚い雲ではなく、まるで昼間の秋空のように、様々な雲が浮かんでいた。空の高めのところに、独立した羊のような形の雲が、上空を埋め尽くしていた。しかしそれらは羊のように群れるでなく(つまり羊雲のようではなく)、言ってみれば真綿をちぎってまるめてばら撒いたような雲たちで、目線を下ろすと如何にも秋の鰯雲・筋雲が漂うように架かっているのとは対照的に夜空に浮かんでいるのだった。

空の色は深い青。秋の澄んだ青空のまま夜を迎えていた。
空だけ見上げていると、まるで黒いフィルム越しに見た白昼の空のようにも見える。雲がなければまさに「日本晴れ」のような「高い」空の中空に、群れない羊が浮かんでいた。
夜空と言えば漆黒の闇のような空の色もあるだろうが、この空は妙に明るい。繁華街でもなく住宅地とも言えぬ一角で、街の灯りはあるものの、空は広く見上げる方角に視線を妨げる無粋な光源もないのに。それはあくまでも高い高い「青空」なのだ。そして浮かぶ雲もまた、「真っ白」な雲であった。

私は眼が良くないので、満天の星空を知らない。もともと都会っ子でもある。しかし幼少時より空や雲を見るのは好きだった。見えないながらに星空を眺め、ときどき夜空に真の闇を感じぞくっとすることがあり、あとでそれが「コールサック(石炭袋)」と呼ばれるものだと宮澤賢治に教わった。
大気の層を通した空は、真っすぐ宇宙だ。雲の無い高い高い空を見上げ焦点を解放すると、近眼ながらそのまま宇宙が見える気がする。そんなとき、何故か孤独を感じるのだ。世界がすべて切り離されたような、ただひとりで生きて行かなくてはならないような、自己の存在の危うさ、他者との関わりとの隔絶。そう、天気輪のもと、何かに衝かれるように泣き叫んだジョバンニのように。

高い高い空でありながら、今晩の空は明るかった。そして優しかった。
昼間の空の青さは大気に日の光が乱反射して見える色だ。そして雲の白さもまた空中の水蒸気の集まったもの・極小の水滴に光が反射しての色。光は地上からの人工のものかもしれない、いや多分そうなのだろう。太陽を背にした夜でありながらほんのり優しい光を映す空と雲。人工の灯りに地球温暖化など人間の奢りを語ることは簡単であるが、ちっぽけな自分の居る世界は確かに人の作りだした世界で、そしてそれ以前に地球上の総てが作りだしてきた世界だ。そこには生命の繋がりがあり、循環がある。大気の層は地球の息吹、灯りの映る空そして雲はまさにその大気の有りようとも言える。この大地を取り巻く大気と言う厚いベールに生きとし生けるものの息吹を感じ、そのぬくもりが優しいのだ、と思った。
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アニメ「天元突破グレンラガン」最終話 [VISUAL&ARTS…観る。]

生命とは何か。
それに対しての答えは
「自己複製を行うシステムである。」(「生物と無生物のあいだ (講談社現代新書 1891) 」福岡伸一)

とりもなおさずDNAという遺伝情報を、気の遠くなる時間をかけて組み換え変異を続け自己複製しながら紡いでいった結果が現在の地球上の生命である。宇宙が生まれ、地球が生まれ、有機体が生まれ。化学反応による増殖が、いつどこで自己複製に変わったのか、くるくるとそれは螺旋を巻きながら果てしなく複製を繰り返す。今の分子生物学には「利己的な遺伝子」と言う考え方があり、遺伝子そのものは「種の保存」なんてもののためにではなく、「自らの生き残り」しか目的とはしていないとのことだが、それは確かに分子レベルの思考回路があるわけでもなし当然のことだろう。巨大な分子の集積物である生命体=生物が思考を持つためには「脳」という司令塔が必要だからだ。
「人間」は他の生物と比べ特大の脳でもって特異な進化を遂げてきた。しかし昨今は言うに及ばず、「人間とは自然界から生まれたゴミであり、ゴミが地上を埋め尽くす前に滅びるべき」と言ったような考えをする「自然派」な論調をする者も多い。「神の目線」に立つことなど誰にもできないはずなのに。

いつの世のことだか、おそらく遠い未来であろう地球。「神の目線」を持った者たちに抗う者が現れる。彼らは自らの存在意義なんて語らず、「自分が自分であるために」生き死んでいく。進化の過程で意思を持ち、社会を営み、他者の存在を認めそれを愛し、そのためには自己犠牲を厭わないが、あくまでもそれは自分のためなのだ。「誰かのため」という自分のための自己犠牲なのだからこそ自分を顧みないパワーを生み出せる。まさに利己的な遺伝子の力、しかしそれこそが意思の力。それが「生命の容れもの」である人間=螺旋族なのである。
「螺旋」には様々な読み解きができるだろう。無限を表すものとして人類は太古より螺旋を描き続けてきた。(装飾研究の第一人者である鶴岡真弓氏の著作等に詳しい。)コンピューターで数学的に描かれる図形。どこまでも描き続けられる同じ文様はフラクタルでこれもまた自己複製。「螺旋力」とはDNA=生命の遺伝情報の持つ「自己複製能力」のことであり、「生命の容れもの」である人間の肉体の限界を超えて伝えられていく意思そのものなのではないだろうか。

さて。前置きが長くなったが、本日最終回を迎えたアニメ「天元突破グレンラガン」。最初から飛ばしっぱなしで突き抜けたアニメだったが、馬鹿な男の生き様な話かと思ってみていたらどうして、終盤に近づくにつれ「螺旋族」=DNAを持つ生物の代表としての人類の存在意義すら考えさせる超オオブロシキ話になっていた。人間という愚かな生き物。それを殲滅せんとするシステム。神の目線などいらない。「種」の行く末は「種」自らが決めていくのだという明確な意思でもって突き進む。その描き方はまさに破天荒であり劇場的でありそしてそれゆえ気持ちよく突き抜けている。物語の進行に「そんなバカな」はない。すでに第1回目のキャラクターの突っ走り加減で、そんなものは吹き飛んでいる。そして描かれるのはイメージされる全ての螺旋の力でありフラクタルのような入れ子構造になったメカ。ミクロからマクロへ、そして最後は「始まり」である「ラガン」へ戻る。それは物語そのものでもあり、主人公である「穴掘りシモン」は自ら「穴掘りシモン」へ戻っていく。死んでいった多くの同志の遺志(意思)を受け継いで戦ったように、「螺旋」のシンボルである「ドリル」を次世代である若者へ手渡して。
神などいらない、未来は自分たちの力で、と支配から逃れた彼ら。生命とは自己複製するシステムである。そして巨大な脳を持つ人間は意思を持ち、その意思を次世代に伝えることを知っている。遺伝情報と同じように。ラスト、20年後の世界でシモンが道具がうまく使えずにいた子供にちょっとしたコツを教えるシーンがある。そうだ、「オトナ」とはそういうことのできる人間のことだったんだ。

天元突破グレンラガン1 (完全生産限定版)

天元突破グレンラガン1 (完全生産限定版)

  • 出版社/メーカー: アニプレックス
  • 発売日: 2007/07/25
  • メディア: DVD

天元突破グレンラガン1 (通常版)天元突破グレンラガン1 (通常版)
2007.9.30現在3巻まで発売済(以下毎月1巻発売)


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映画「サンシャイン2057」 [VISUAL&ARTS…観る。]

原題 SUNSHINE (2007 イギリス 20世紀フォックス) 
監督:ダニー・ボイル 主演:キリアン・マーフィー

♪ Sunshine on my shoulder makes me happy(by John Denver)
猫でなくても日向ぼっこは幸せな気持ちになれる。
日焼けは嫌だが、夏場、冷房で冷え切った身体を容赦ない日差しのしたに投げ出すと、ジリジリと肌を焼かれることに快感すら感じることもある…私だけかもしれないが。
地球上の生きとし生けるもの総てがなんらかの恩恵を太陽から得ている。
太陽は命の父であり信仰の対象でもある。

物語の舞台は「近未来」。たぶんリアル感を出すために必要だったのだろう。50年後の未来と言うことに意味はない。現在の天文学では太陽の寿命はあと50億年と言われており、黒点の増減により地球環境への影響はあるものの、本作での設定のようにだんだんと非活性化で温度が下がる以前に膨張して熱による破滅がまずやってくるだろう。しかし、この物語のSFとしての寓意はそこにはない。
冷え切った地球からの太陽への眼差し。欲求。命を育むものへの希求がある。

太陽の寿命を少しでも永らえるために人類の文明科学の粋をもって作られたプロジェクト、そしてその宇宙船とクルーたち。使命を果たすことを何より優先する若い優秀な科学者たちである。決して帰り道の保障されていない彼らは、どこか諦めのような悲壮感を隠しながら自らをヒロイズムで奮いたたせているかのようだ。
年長の精神科医は日に日に近づいていく太陽の光を求めてデッキに立つ。フィルターをギリギリまで解放し、火傷と言ってもよいほどの日差しを受ける。焼け死ぬことが本望か、と思われる船外活動時の事故をはじめとする処々のシーン。先行して行方を絶っていた宇宙船のクルーの末期。そしてその亡霊とでも言える存在。
クライマックスにおける太陽の炎と対峙する主人公の表情は、悦楽にも似たものが感じられた。
彼らが恐れていた「太陽に向かって落ちる夢」、実のところ「太陽とひとつになる」ことへの強い願望の裏返しだったのではないだろうか。

観るひとの数だけ解釈がある…とは監督並びに出演者の弁である。
私なりの勝手な解釈をしても許されることだろう。

… … …
ちょっと設定的にブラッドベリ「太陽の黄金の林檎」を思い出し、読み直してみた。
こちらのクルーたちは、短編でもあり、もっとドライだ。目的が「帰る」ことであるという違いはあるが、使命感に諦念を漂わせてはいない。合わせて読むと、映画のタイトルが「サンシャイン」であることの意味が引き立つことだろう。

太陽の黄金の林檎

太陽の黄金の林檎

  • 作者: レイ ブラッドベリ
  • 出版社/メーカー: 早川書房
  • 発売日: 2006/02
  • メディア: 文庫

短編集。画像の帯にあるのはまた別の映画「サウンド・オブ・サンダー」。
↓手元にあるのはこちら。

太陽の黄金の林檎

太陽の黄金の林檎

  • 作者: レイ・ブラッドベリ
  • 出版社/メーカー: 早川書房
  • 発売日: 1976/01
  • メディア: 文庫

追記:DVDでます。
サンシャイン2057

サンシャイン2057

  • 出版社/メーカー: 20世紀フォックスホームエンターテイメントジャパン
  • 発売日: 2007/09/07
  • メディア: DVD

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1/20 La'cryma Christi LastLive”WhitePeriod.”@ZeppTokyo  [MUSIC…聴く。]

幸せな夢を見た。

一週間経った今も、そう感じている。

昨年秋口、ラクリマ・クリスティーの新アルバムの発表直後に流れた一報は「解散」の2文字。8月末のライブで感じた違和感をアルバムの完成度ですっかり吹き飛ばしたばかりのところにやって来た事実。どんなことにも終わりはあると解っていてもショックはショック。ただ、5人が4人になり、音で著される世界観も多かれ少なかれ変化してきたここ数年の彼らの動向から、それは仕方のないこととして受け止めたのもまた正直なところであった。

そのアルバム名を冠した11~12月の最後のツアーを終え、迎えたラスト・ライブ。熱狂はチケット発売時から伝わっていた。一気に売り切れ、オークションに流れたものも多かったようだ。発売日に買えず諦めかけていたが、キャンセル待ちチケットをたまたま2枚手に入れた人より定価で譲ってもらえたのは、まさに幸運としか言いようがない。
開場時間過ぎてゆりかもめ・青海駅を降りて向かったZeppTokyo前は大層な人だかりで、94年デビュー時からのオールドファンやハード路線からの男性ファンなど普段のライブより幅広い客層が見てとれる。チケットを手に入れられなかったファンもかなり来ていたのだろうか、コンサートグッズの類は既に「SOLD OUT」が目立つ。いつもより多い入場者数のため会場入りにはかなり時間がかかったが、Zeppの構造が功を奏して前の扉からなんとか入り込むことができた。ちょうど開演時間。客電落ちるまでしばし待つ。

ほどなく始まったライブは新旧のノリの良い曲を繋いでいく、まさにGreatestHits!MCも多く、観客にも積極的に声を掛けていくVo.TAKA。ファンを大切にし「ここにいるみんながラクリマ・クリスティーです。」と言う彼らならではの構成。セット・リストもMCも、最後の夜を楽しんでもらいたい、と言う気持ちが伝わってくる。観客もそれに応える。13年という長い期間のいろいろな時期のファンが、それぞれの楽しみ方をしている。概ね見事な「手扇」を見せるのはある程度上の年齢層の女性陣。ヴィジュアル系全盛期のラクリマ・ファンはファッショナブルな女性が多い。しっかりヘドバンする若い子たち。控えめな男の子たち。やんちゃなファンも多いが全体的にみると大人しく暖かい。私が彼らのライブに参加するようになったのは99年のツアー・アンゴルモア、横浜の公演からだが、この観客たちの暖かさがライブの魅力だったのは間違いない。他のバンドの一部のファンのように他を貶めたり傷つける言動はまず見聞きしなかった。そんな心地よい記憶を辿りながらも、時間は進んでいく。

最近のライブでは演奏しなかった曲も含め18曲、この日のタイトルでもある「White Period.」で一旦締めくくる。このタイトルを選んだのは活動のピリオドと言う意味だけではないだろう。インディーズ時代の曲でありながら、ファンの強い要望によりライブで演奏するようになった曲だ。ヘドバンありリフレインを観客に歌わせるなど一体感を求めるこの曲こそが本編のラストを飾ったのだった。
アンコール。まだまだ聴いていない曲はたくさんある。一気に3曲、比較的新しい曲でハードに。2度目のアンコールでは動きの激しい曲で客席を煽り、3度目のアンコールはメジャー・デビュー曲「IvoryTree」そしてやはり初期の曲ながらライブの定番「南国」。そして、鳴りやまないアンコールに応えての、ほんとうに最後の1曲は、「White Period.」同様にファンの支持の高い「The Scent」。

終演の時。終焉のとき。みな口々に叫ぶ。「ありがとう!」
やりきった満足感。本当に充実した良いライブだった。
ああ、終わったんだ。
正味4時間以上?気付いたら時計は11時近く、余韻とともにフラフラと帰途につく。

雨が降っている。時折ミゾレが混じる。
かつてこの会場でのライブで雪が降り、急遽「雪になった二人」をやったんだっけ。今日のセットでもそれを意識したんだろうな。
頭の中では名曲「Lhasa」がリフレインする。

さよなら 降り出した雨が こころ濡らす
さよなら 君の思い出が 僕に溶ける
For You

ありがとう。


ここ数年、ほぼ地元分は皆勤していたライブですが、日記ブログに辛うじて記載するのみで、記事を書くことが出来ずにいました。でも、これだけは記録しておきたかったのです。1週間も経ってしまいましたが、まだまだ暖かい余韻に浸っています。
終演後に配布されていたチラシでは、早くも新ユニットの活動が予告されていました。それがあっての前向きなライブだったのかもしれません。


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「納涼茂山狂言祭 2006」東京公演 第1日夜公演 [VISUAL&ARTS…観る。]

東京・千駄ヶ谷 国立能楽堂 9月4日 18:30

前々からきちんと観たかった狂言の舞台。いや、きちんと、と言うか、今まで何度か観ているのがイベントとかホールでとかだったので。
国立能楽堂は初めての場所だ。何かとても敷居が高かった気がする。
今回のチケットはかなり前に購入した。
「お豆腐狂言」を標榜する庶民派一派、茂山家。
能ほど格式ばらず、歌舞伎ほど下世話でない、そんな狂言を伝統を守りつつ柔らかくノリ良く現代人に提供してくれる。もともと狂言は、能の舞台と対で演じられ、観客の心を掴む喜劇である。諧謔を旨とする「お笑い」。伝統芸能としての仕草・装束、だが能面を付けない役者が表情豊かに演じる演目は演芸として成立した当時より繰り返し演じられた日本中世の庶民の泣き笑い譚であり、それはまったく現代人の感覚と変わらない、ということを教えてくれる。

今回の舞台は毎年茂山家がファンサービスのような形で演目のリクエストを受け付け、それによって決まった演目を、大阪で昼夜3回、東京で昼夜3回、全て演目を替え6回で18の演目を行うもの。この日は東京での最初の公演日。
演じられたのは「蝸牛」「鎌腹」「死神」の3本。元々狂言だけで演目を設定するときはあまりない組み合わせだそうである。前2本は伝統的演目でスラップスティックな笑い。最後の長めの「死神」は新作狂言。先月観た現代劇とも通じるシュールでブラックな笑いを提供する。この「死神」は元が落語の題材で、さらにそれはフランスの小咄なのだそう。笑いのエスプリは古今東西変わらないといったところだろうか。
3本とも気負わず楽しめたが、観客もみな同様、まるで現代喜劇を観るのと同じく声を立てて笑って観ている。違うのはカーテンコールにあたるのものがなく、終わればそれまで、と言うところか。
アンケートを書いて外に出る際、なぜか終了後スポンサーよりワンカップ梅酒をいただいた。(ちなみにアンケートには逸平さんが観たいと書いたミーハーな私である。)惜しむらくは流石に3公演通しで観る時間と資力がないことである。

余談。
初めて能楽堂に行くにあたり、何を着ていこうか迷った。着物でも着て行きたかったが、残暑厳しき折り汗だくになるのは間違いなく、流石に浴衣じゃおかしいので、結局普段着をちょっとおしゃれっぽくしただけのカジュアルな格好で出掛けた。
開場前に能楽堂についたが、高齢な方から若い方まで、意外なほど普通の格好で、会社帰りのサラリーマン・OLがそのままの姿で来ていたり若い女性は私同様片肌出したカジュアルな服装だったりしていたので胸をなで下ろしたのでありました。場内はさほど冷房は効いておらず、持っていった上着(ブラウス)は着ずに片肌だしたままの鑑賞とあいなりました。


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