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「南極点のピアピア動画」野尻 抱介 [BOOKS…「魔女の本棚」]


南極点のピアピア動画 (ハヤカワ文庫JA)

南極点のピアピア動画 (ハヤカワ文庫JA)

  • 作者: 野尻 抱介
  • 出版社/メーカー: 早川書房
  • 発売日: 2012/02/23
  • メディア: 文庫

初出2008年~2011年及び書き下ろし

――――「夢がある」
そう人が言うとき、その人は「それ」が現実のものでは無い、と言うことを言外に表すものだ。
謂わば「それ」と言う存在に対する「拒絶」あるいは「却下」、すなわち「寝言は寝て言え」。
つまりは言われている側(そう、私自身でもある)がまさしく荒唐無稽な虚言を吐いていると言われているわけだ。そういうことが続くと、そう言われることに無性に腹が立ち、「夢は実現してナンボんのもんじゃい」と息巻いてみたりもするが、所詮は言われるだけの実力しか持ち合わせていない、という悲しい現実があって、やはり「夢」は「夢」なのかも、己と闘うことを止めそうになる。

SFと言うのは、「現在」に潜在する事象・予見される芽生えを想像力によって拡大し成長させて「未来」を予測して表現するジャンルである。ゆえに科学が一部の人々のものであった時代、「夢物語」であり、想像することを苦手とする現実主義者=一般人から敬遠されてきた。
しかしながら現在の技術革新ときたら、既に一般人の手の届かないところで急激な進歩を遂げ、いや、むしろ一般人が最先端のテクノロジーを自在に操っているではないか。ITから程遠いと思われがちなF3層(50歳以上の女性)がスマートフォンを駆使しているのを見るにつけ、むしろPCにしがみ付いている自分のほうが時代遅れだと感じてしまう今日この頃、デジタルネイティブなどは言わずもがなである。

さて、これまた言わずもがなであるが、本書タイトルにある「ピアピア動画」とはすなわち「ニコニコ動画」、カバーで真っ直ぐな眼差しを向ける「小隅レイ」は「初音ミク」の揶揄である。所謂「一般人」がSFに入りやすいように、と言う意図もあるらしいが、確かに「ニコ動」「ミク」は既にオタクの範疇を超えている。そもそもオタク的なものが裾野を広げ、平準化してきている時代なのだ。制限が無いわけではないが、個人がマニアックな事象を手に入れ易く、そして繋がり易くなった「集合知」の時代である。
この設定を見事に生かし、あたかも現在のシステムで実現されていくかの如く物語が紡がれていく。読み進めていくと、なんだかホントに出来ちゃいそうな気がしてくるのだ。そう、あの「はやぶさ帰還」の物語のように。
しかし、ふと我に返ると実に夢物語なのである。もしかすると出来ちゃいそうな物語に続くオーバーテクノロジーをすっかり受け入れてしまっている自分が居て、失笑してしまった。もちろん心地よいほうの、である。

「夢」は眠っている間に脳の記憶領域が見せるものだ。そう考えると、如何に荒唐無稽であろうと、現実に起こったこと(もちろんそれが真に現実である必要は無い)を組み替えているに過ぎないのだから、すべてが現実の延長線上にある。「夢物語」が「夢」で終わるのか、「現実」になるのか、それは現代を生きる人々の営みの上にあるものなのだ。だから、SFは止められない。(そして、夢をみることも。)
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「何もかも憂鬱な夜に」中村 文則 [BOOKS…「魔女の本棚」]


何もかも憂鬱な夜に (集英社文庫 な 54-1)

何もかも憂鬱な夜に (集英社文庫 な 54-1)

  • 作者: 中村 文則
  • 出版社/メーカー: 集英社
  • 発売日: 2012/02/17
  • メディア: 文庫

初出:2009年3月集英社刊

歯医者の予約までに1時間あったので、銀行に行って、それからよせばいいのに本屋に入った。気になっていた単行本と、言葉関連の本2冊、そして文庫の新刊。単行本をガンガン買うわけにいかないので、やはり文庫は貴重だ。
そして平積みになっていた新刊のなかに、この作品があった。

ちょっと安易なタイトルじゃないか?
帯に巻末の解説を書いた若手芸人の顔写真と名前。あぁ、ウチの末っ子が好きだったな。
作者は芥川賞作家、芥川賞と言うと観念的な作品が多いけれど、若者向けで読みやすいなら、日々己の怠惰との確執で悩んでいる末っ子に読ませようか。とりあえず先に読んでおこう。
しかしこの〈軽さ〉は、あっさりと覆される。

物心ついて成長期に至り、人は、余程幸せな境遇でなければ、「本来自分は何者なのか」と思い悩むことだろう。
何かのおりに繰り返し思い起こされる原体験あるいは原風景。記憶の混乱。
自分の心の中にある埋まらない空虚。
施設出身で刑務官をしている「僕」の内にある何物かを受刑者たちは敏感に感じ取る。
同じ種類の人間だ、と。
友の自殺、受刑者・死刑囚との関わり、まとわりつく死のイメージ。
死刑制度については思うところ大ではあるが、この際是非は置いておこう。
われわれはすべからく「命」を持っている。
また、命あるものには必ず「死」が訪れる。

まだ大人になりきれていない「僕」が、虚無感に日々苛まれても踏みとどまれる力。それを与えたのは施設長の包容力だろうか。かつて「救われた」ことのある人は、誰かを「救う」ことを望む。為すすべもなく救えなかった過去が、それを後押しする。「僕」は「彼」に言う。

『命は使うもんなんだ』

その「命」は何ができるか。
この世に生を受ける、と言うこと。
何故生まれてきたんだろう、そんなことを考える前に。
目の前が、開けた気がした。
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「夢のすべて」大石 直紀 [BOOKS…「魔女の本棚」]


夢のすべて      (角川文庫)

夢のすべて     (角川文庫)

  • 作者: 大石 直紀
  • 出版社/メーカー: 角川書店(角川グループパブリッシング)
  • 発売日: 2011/02/25
  • メディア: 文庫


初出:2006年5月「オブリビオン~忘却」(角川書店)を改題


忙しさにかまけてボーっとしていたその日、出掛ける電車の中で読もう、と買い置いていた1冊の文庫本を手に取った。
ブツ切りでも読めるように、と評論書のつもりで持ち出していたので、すっかり勘違いしたまま、地下鉄に乗り込むとすぐにページを開いて読み始めた…
これが小説、そしてミステリーと気付いた時には既に夢中で読み進めていた。
帰宅後そのまま2時過ぎまで一気に400ページを読了。

最初はタイトルに惹かれて買ったのだ。
「夢のすべて」。
夢に関わる幻想、あるいは幻視的な話、脳科学系。
ところがまったく「夢」の話ではない。
いや、「夢」を「記憶」と置き換えれば良いのか。
「夢でも視ていたように過ぎて行った日々」と言えば良いのか。

6歳までの記憶の無い少女。
兄はそれを前世だと思えばよい、と言う。
しかし彼女は知ってしまった、本当の両親の存在を。
物語は彼女と、そして犯罪者として逃げ続ける父親を、2つの軸として進む。

福祉系の仕事をしていたときに、人の人生を「生活史」として略歴を綴っていたことがある。
どんな家庭に生まれ育ち、どんな教育を受け、どうやって自活するようになったか。
どんな成り行きで結婚・同禽・離別し、どのように病を得たか、等々。
なるようにしてなった者もいれば思いもかけずといった者もいる。
自堕落な者ばかりでもなく勤勉にも関わらず、ということもある。
しかしいずれにせよ、人ひとりの人生はLike a rolling stoneなのだ。

まさに転がる石の如く流転する父・信彦と娘・梓を結んだものは楽器・バンドネオン。
独特の音色を持つ、アコーディオンに似た南米の楽器である。
物語は流転する信彦を追うようにスピードを上げて転がっていく。
まるで「血」のように身体に流れる「音楽」によって悲劇は起こりまた終息する。
それはまた、癒しとなり、読後を救いのあるものとしている。

梓の中に流れる血。それもまた「記憶」と言えるだろう。
育った環境の中に連綿とある家族(一族や血族)の記憶。
そして転がるように生きてきた人生。
まるでそれは夢を視ていたかのような。

そう気付いて、改題の意図を知る。やられた。
これは読み捨てとなりがちなミステリーの中で、「何度も読みたくなる」一冊となった。
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「生命をつなぐ進化の不思議」内田 亮子 [BOOKS…「魔女の本棚」]


生命(いのち)をつなぐ進化のふしぎ―生物人類学への招待 (ちくま新書)

生命(いのち)をつなぐ進化のふしぎ―生物人類学への招待 (ちくま新書)

  • 作者: 内田 亮子
  • 出版社/メーカー: 筑摩書房
  • 発売日: 2008/10
  • メディア: 新書


就職したばかりの頃、ひとりの先輩女性がこう言った。
「人はね、生きてる間に3つのうちのどれかを残せば良いんだって。
 それは、『もの(作品)』『金(資産)』そして『こども』。
 私はね、子どもを産んだのでもういいの。」
80年代初め、まだ事務職では育児休暇の取れなかった時代。当時でも共働きの当たり前の職場だったが、若干遠距離通勤でもあった彼女は、夫の実家住まいで、家族からも「お嫁さん」であることを望まれていたこともあり(だからこそ「自分」でいるために仕事を辞めなかったのではあったが)、3人目の子を出産してしばらくしてから退職していった。
「あなたは何を残すのかな。」

人間は、動物である。生命(いのち)をもつもの、生物の中の「ヒト」と言う種である。
生命とは、何か。
遺伝子により継続していくもの、少しずつ少しずつ、周りの環境に適応しながら、また、周りの環境を変えながら、本能として「種の保存」を知り、連綿とつながっていくひとつの生命。
個体には長くも短くも寿命があり、生まれては死んでいく。
しかし「生命」と大きなくくりをしてみると、種・それ自体がひとつの生命とも考えられる。
アメーバのような原生生物が細胞分裂を繰り返しながら大きくなっていくように。

生命はその維持のために様々な行動を起こす。
食べる。共同生活をする。繁殖する。
種ごとの方法はともかく、次世代を産み育て、個体としては老いそして死ぬ。
人は、いや、ヒトは確かに高度な知能を持っているが、結局は他の生物と変わることはない。

本書はまず、生物の種としての行動をひとつひとつ積み上げてひも解いていく。
昆虫も鳥も小動物も猿も人も、食べることで個体の生命維持をし、その栄養状態によって繁殖をする。
効率を求めて社会を形成する。楽になった分退化する。それがまた必要性を生み社会が進化する。(ヒトが他の生物と違うとすれば「経済」が異常に「進化」したと言うところかも知れない。)
大型類人猿の調査で、個体の栄養状態により子どもを産む数が増えたり減ったりする、と言うのは面白い、と思った。なるほどヒトの産む子どもの数は減るわけだ。母体だけでなく精子生成の増減も変わる。
個々の生命の生き方=ライフサイクルを辿りながら記述は進んでいく。
そして老化。(これは自分の年齢的にも一番の関心事かもしれない。)
そもそも野生動物では老衰よりも事故(捕食)・病気・気候変動で死ぬのが殆どだそうだ。
ヒトに限らずだが、長い命を得てしまったが故に「老化」がある。
類人猿のデータを中心に各種研究成果を元に語られてはいるが、実にここまで人間社会に寄りそって章立てが進められている。生物学の本なのに社会学の本を読んでいる気にさせられるのだ。

最終章、いよいよ「死」が語られる。
死は「個体」としての生命の終わりである。
しかし生命は社会を作り次世代につながって行く。
ここでやっと、「ヒト」が「人間」であるための生き方が示されるのだ。
すなわち「知」。他の生物にも「知」の蓄積はあるが、ヒトは大きな大脳を得たことで「知」の方面で大きな進化を遂げた。しかしそれにより自然界としては大きく環境を変えてしまっている。
蓄積された「知」がクライシスを起こそうとしているように言う人は多いが、回避できるのもまた「知」。
「生き方」そのものに「知」を働かせ、それを次世代に伝えていく。
それこそが「ヒト」と言う種を生き残らせるための手段なのだろう。

本の帯に「ライフヒストリーという物語」と書かれていた。
「人間」と言う社会的生物が、ひとつの生命としての物語を綴っていく。
堅いようで柔らかい頭脳を持つこの碩学のひとりの生物学者が同い年の女性であることに、誇りと、ちょっと嫉妬を感じてしまった。あなたは既に素晴らしい「知」を確実に残していますよ、と。
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「グレイッシュ メロディ」水樹 和佳子 [BOOKS…「魔女の本棚」]

グレイッシュメロディ

グレイッシュメロディ

  • 作者: 水樹 和佳子
  • 出版社/メーカー: 白泉社
  • 発売日: 2006/01/27
  • メディア: コミック
白泉社「メロディ」初出2005年2・3・8・9月 Jets Comics

先週末、平積みで売ってたのを見つけびっくりの新刊本。
いつの間にか連載してた…と言うか復帰していたのか。なんにせよ、新作が読めるのは嬉しい限り。
物語は「やたら身体は鍛えている何やらTV・映画関係の仕事をしている父」と「大切にはされているが若干13歳で所帯じみてしまっている息子」の関係に「家出少年&エトセトラ」が絡むファミリー・コメディ。
2話(連載2回×2)からなるが、vol.1は「りぼん」在籍当時の「オー・ボヘミアン」を彷彿とさせ、vol.2もその後に発表されたコメディの数々を思い出させてくれる、まだ重いSFファンタジーを描く前の「水樹 和佳」の世界だ。

いつも相手を大切に思うばかりに言葉を飲み込んでしまうひとたち。伝わらない思いによるすれ違い。お互いに本心を隠し合うのだから当然の帰結だ。それが破綻を呼んでしまったとき、初めて他者の介在で気づく。そして、その他者も自らの欺瞞…この場合は「お互いへの愛情」を隠していたことによる誤解に気づかされる。これは作者・水樹和佳子が「りぼん」~「ぶ~け」と作品を発表していく中で繰り返し描かれていたものだ。
「樹魔」「イティ・ハーサ」が描かれる前、彼女の作品はそう言ったコメディが多かった。大抵はハッピー・エンド。これは少女漫画のみならずラブコメ全盛期だったせいかも知れず、雑誌の編集方針だったのかも知れない。しかし、のちに長大作である「イティ・ハーサ」一本に集中するまで、こういったコメディを描き続けていたのだから彼女の漫画描きとしての一方の本質なのだろう。

あとがきには「この作品以前に描き上げた長編が(中略)どうにも漫画をもう一度描くという行為の足枷になり」とあった。長い長いインターバル。そしてまた、近年感じる「白黒つけたがる風潮」に対する「息苦しさ」から描きたい気持ちが生まれた…それがタイトルの「グレイ」である由。
すでに年齢的には「漫画」という心身ともに消耗する仕事は辛いはず。それも長く筆を置いていたわけで、(まったく描いていないわけではないにしろ)膨大なエネルギーが必要だったのではないか、と、怠け者の私などは思ってしまうが、「描きたいもの」が見つかったときの「モノ書き(描き)」のパワーを見せつけられた格好だ。
ともあれ、かつて好きであったコメディ作家としての水樹和佳子の復活に、双手を挙げて大歓迎なのである。ゆっくりと、たまにで良いから描き続けていってほしいと思う。

(思い切り蛇足だが、私の高校時代からのペンネーム「瑞鬼 愁」の「みずき」は半分は「水木しげる」翁から、半分は「水樹和佳」師からの頂き物である。…誰も聞いてないってw)

「時間の分子生物学」粂 和彦 [BOOKS…「魔女の本棚」]

時間の分子生物学

時間の分子生物学

  • 作者: 粂 和彦
  • 出版社/メーカー: 講談社
  • 発売日: 2003/10/20
  • メディア: 新書
講談社現代新書 (副題~時計と睡眠の遺伝子~)

時間。それはビッグバンより始まり決して戻ることなく脈々とただ流れるもの。
それゆえ人々はこの宇宙の摂理、制約として数々の魅力ある物語を生んできた。
特にSF・ファンタジーでは逆説的に仮想世界が繰り広げられ、例えば時間旅行ものや、次元のひとつとして自由に行き来できたり時を超えての交流をしたり。制約あればこその想像力の源となっている。

時間はこの地球の成り立ちから、全てのものに関わっている。
時の流れ。星が巡り、太陽が巡り、昼と夜がある。
空気が動き天候を生み、大地とともに「環境」を造り出す。
生命はこの環境の中で生まれ育まれてきた。
人間はこの時間の中に繰り返しを見いだし、暦として歴史を紡いできたが、人間として生まれる以前にそれは身体に刻まれたものなのだ。1年や1日という周期。繰り返す時間とともに変化する事象。本書ではこの周期に合わせて生命が進化していったと語る。それは海から有機物が生まれたとき、昼と夜、交互に現れる光と闇に、より効率的なエネルギー代謝を求めて細胞というノートに遺伝子という文字で書き込まれ、次世代へと受け継がれて行った…。

確か、当代きっての論客・立花 隆氏が、かつて臨死体験について語っていたと思う。(未読ゆえ情報が不確かなのはご容赦願います。)瀕死の淵から生還した者の語る死後の世界。広大な花畑と延々続く大河、そして遠くから呼びかける既に亡くなっている近親者。それは脳が見せる幻影、脳細胞のうちに書き込まれた情報であると。
また、動物が突然増殖したかと思えば大移動のうえ自ら命を捨てる行為。まるで先祖代々言い伝えでもされたかのような、本能による不可思議な行動。そんなのも遺伝子によりプログラミングされた行動なのだろう。
同じように時間という概念がありとあらゆる生物の遺伝子に刷り込まれ、生命活動を支配している。

著者である粂氏は睡眠の研究を遺伝子レベルから始めた。遺伝子に刷り込まれた生物時計である。その時計は脳にとって必要不可欠な睡眠を「摂る」ために働くものだ。(寝ないと死ぬ、と言うのは眠らないと極度の疲労から多臓器不全を起こしたり免疫系に障害が現れたりすることによるそうだ。)幸運も重なりながら多くの科学者により次々と睡眠の謎が解き明かされていく様は下手なSFなど目に入らぬほど面白い。購入から2年ほど放って置いたが読み始めたら一気に読んでしまった。
私は摩訶不思議なものが好きな反面、実は全ての事象は科学で解明できると信じている。「事象」は「事象」であるからなんらかの原因があって成り立つものと考えられるからだ。例えば幽霊しかり。ただそれを超えたところに「物語」の力があると思っている。あり得ないことを産み出す想像力は人にこそ備わっている最大の力だ。本書のような科学的な読み物を好きで読むが、それはまた、新たな想像力の引き金となっていく。
…惜しむらくは自らにその想像力を表現する力が不足していることだったりもするのだが。


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「江戸の妖怪絵巻」湯本 豪一 [BOOKS…「魔女の本棚」]

江戸の妖怪絵巻

江戸の妖怪絵巻

  • 作者: 湯本 豪一
  • 出版社/メーカー: 光文社
  • 発売日: 2003/07/17
  • メディア: 新書
光文社新書

秋口に映画『妖怪大戦争』を観た。30年以上前の同名映画を彷彿とさせる、と言うよりこの映画自体がそれのリスペクトである。現在の日本人の「妖怪好き」は、やはり『ゲゲゲの鬼太郎』をはじめとする水木しげる作品によるものが大きいだろうが、そもそも日本人は妖怪が好きなのだ。
お化け話は勿論のこと怖いモノであるべき「妖怪(ばけもの)」たちがいつの間にか身近で滑稽なキャラクターとしての道を歩き始める…それは江戸時代、すでにそういう存在として人々に愛されていたのである。

本書は「言い伝え」から始まった「妖怪譚」が江戸時代に出版技術の発展に伴い「人々の共通認識」としてその存在を確立していく様を、順を追って論を展開していく。
何だか得体の知れない現象と言っても良いかも知れない「妖怪」が、メディアによってだんだんとキャラクターとして確立していく。今で言えばアニメの登場人物のように、まるですぐそこに実在し、ともに空間を共有しているかのような身近な存在として提供されていった。草双紙のような当時の庶民の娯楽のネタとして、格好の題材だったに違いない。メディアやグッズへの展開など、現代のオタク文化といっかな変わるところはない。
百鬼夜行絵巻から子供向けの玩具に描かれた妖怪たちは、すでに言い伝えの域を逸脱し創作さえされてそこに「存在」している。「描かれること」により現れる存在。そして戯画化。そうなるともう「妖怪」は決して「畏れる」どころか「恐れる」ものでもなく、愛らしいキャラクターでしかない。

とは言え伝承としての「得体の知れない(怖い)存在」としての妖怪は消えてなくなった訳でなく、近代までは少なくとも別のメディアの中で生きていた。本書では瓦版錦絵から明治期の新聞記事まで、奇談として伝えられていった様を追っていく。そうして都市伝説やネット上の噂の伝播にまで触れ、現代に生きるあやかしたちの存在場所としてのメディアを示唆する。
サンタクロースだろうが神様だろうが、「存在」と言うモノは人が場所を提供してはじめて「存在する」ことができるのだ。妖怪たちにとって「絵巻」がそんな場所だったように。

~魔女の本棚より~
「妖怪草紙 くずし字入門」アダム・カバット(柏書房)
 …江戸期草双紙等に書かれたくずし字を読み解くのが目的の書だが、コミカルに描かれた妖怪たちの姿がナイス。
「地方発 明治妖怪ニュース」湯本 豪一(柏書房)
 …本書の著者によるデータベース的な書。姉妹書に「~妖怪新聞」も。
「しゃばけ」畠中 恵(新潮社)
 …虚弱な若旦那をサポートする妖怪たちがなかなか健気なシリーズ第一作。


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「トリポッド」ジョン・クリストファー [BOOKS…「魔女の本棚」]

トリポッド 1 襲来

トリポッド 1 襲来

  • 作者: ジョン・クリストファー
  • 出版社/メーカー: 早川書房
  • 発売日: 2004/11/09
  • メディア: 文庫

トリポッド (2) 2脱出 ('05.1) 3潜入 ('05.3) 4凱歌('05.5)トリポッド 3 潜入

トリポッド 4凱歌 

 

ウェルズの「宇宙戦争」がトム・クルーズの主演で映画化された。観たと言う人の評判はあまり良くなかった。SFというより単なるパニックものみたいということだった。私自身は、昔の映画のほうはどこかで観ていて、侵略者のあっけない結末に「なーんだ」と思う傍ら、胸をなでおろした覚えがある。 しかし、そのままあっさりと侵略されてしまっていたら?

そんな世界を描いたものが、この「トリポッド」の最初の3部作。’67~8年にジュブナイルとして上梓され、子どもたちの人気を博した。その後’82に前日譚が発表され、現在では4部作として読み継がれているとのこと。邦訳では約30年前に出ているのだが(私は読む機会を得られなかった)、この度ディズニーが映画化するとのことでめでたく4冊組で早川から刊行された。
その「いともあっさり」侵略されてしまった地球。主人公一家が何とか侵略者により精神的に支配された一団(キャップ人)から逃れて、アルプスおぼしき山中に反逆者のアジトを築くまでを描いた前日譚たる「1襲来」。もしも自分が居合わせたら?隣人が隣人を狩る世界。戦時中やいつかの事件のように、信じるもののために自らの意思を持たず闇雲に従うものたち。今現在の日本、いや世界各地であってもおかしくない寓意的世界に暗澹たる思いが残る。
それからおおよそ100年後の世界。とある少年のふとした反抗心…思春期特有のものとして、そのまま何事もなく被支配者の一員として、翌年には年上の友人と同じく「素晴らしい世界」の中で生きていくはずだった。それがとある人物との出逢いによって出奔。そして、そこから息も吐かせぬ展開となる。
本編である3部作の主人公・ウィルは、最初から最後まで欠点のある少年として描かれる。短気で意地っ張り、少々見栄っ張り。ミッションを遂行するには致命的な欠点。ほかの主要メンバーと比べると人間的成長はしないは、思い切り失敗するはで良いとこなし。なのにそこは主人公、運が良いというか、うまく事が運んでいく様はジュブナイルの王道であり、読んでいてともに進んでいる気にさせてくれる。未読の人のために詳細は伏せるが、長く行動を共にした友人たちとのやりとりに最後はほろりとさせられる。そして、人間の愚かさが、再び、改めて問われるのである。

人間としての尊厳ってなんだろう。「しあわせ」ってどんな価値観なのだろう。
支配された社会の中、人々は少なくとも幸福感を味わっていた。
それがたとえ「与えられたもの」だとしても、彼らは幸せを感じていた。
高望みしなければありきたりでも幸せは得られる、そんな考えが今を生きている者たちの中にも蔓延していないか?

君たちに戦う意思はあるか?


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「少年陰陽師~天狐編~」結城光流 [BOOKS…「魔女の本棚」]

少年陰陽師 儚き運命をひるがえせ

少年陰陽師 儚き運命をひるがえせ

  • 作者: 結城 光流
  • 出版社/メーカー: 角川書店
  • 発売日: 2005/06/30
  • メディア: 文庫


 

「名前はもっとも短い呪である。」

古来、「名」にはいろいろな意味づけがある。
「真名」と言って他人に知られてはいけない名があったり、本名は親しか知らず子ども時代は幼名、長じては字(あざな)、死して諡(おくりな)を呼ぶ風習があったり。西遊記で金角銀角の持つ瓢箪は持つ者が呼ぶ名に答えると中に吸い込まれてしまう。ゴッドファーザーのように「名付け親」には特別の支配権限があったり、神の子として認められた赤子には洗礼名がつく。あだ名、愛称。本名で呼ばないためにいろんな呼び方がある。同名を区別するだけではないだろう。また、ペンネーム、芸名、そして姓名判断。字面や音なども含め、まさに「NAMED(名付け)」とは個を識別するための「記号」としての特別な意味がある。

本作では、その「名」がキーワード。
敵対するものには決して知られたくはないが、愛しいひとには知って、呼んで欲しい。「名」を呼んでもらうことで、人は特別の存在たり得る。
また逆に決して呼ばない名がある。相手を大事に思うからこそ呼ぶ名がある。そして自分だけが呼べる「名」。誰かの名を呼ぶとき、その存在が意識の中に顕現する。存在を許される。いろいろな「名」がいろいろな意味で誰かによって呼ばれるとき。物語のあちこちにそう言った場面が重要な場面として現れる。そういえばこのシリーズに於いて、最初から「名」が重要な位置を占めていたな、と改めて思い至るのだ。

少女小説を超えた人気作シリーズの最新刊で、「天狐編」最終巻でもある「儚き運命(さだめ)をひるがえせ」。もう13冊目である。あれよあれよと言う感じに人気が出て、CDドラマに、コミックにと留まることのない怒濤の展開、来年あたりはアニメ化もしそうである。
私が読み始めたのは、まぁ陰陽師ネタ、安倍晴明モノだからと言うのもあったが、素直に晴明でなく「晴明の孫」が主人公と言うのもさることながら狸爺・晴明と唯一の後継とされる昌浩、通称「もっくん」こと騰蛇をはじめとする十二神将、そして安倍家、藤原一族、大内裏。彼らのとにかく真摯な優しさ、ひとを思いやる痛いほどの気持ちが、危機を呼びながらも危機を乗り越える力となる様を描き出していく…人の脆さを知る寂しさと温かさ。そんなところが読み続けている理由だろうか。


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「馬・船・常民 東西交流の日本列島史」網野善彦・森浩一 [BOOKS…「魔女の本棚」]

馬・船・常民―東西交流の日本列島史

馬・船・常民―東西交流の日本列島史

  • 作者: 網野 善彦, 森 浩一
  • 出版社/メーカー: 講談社
  • 発売日: 1999/10
  • メディア: 文庫

講談社学術文庫 (初出:92年河合出版)

「歴史」として通り一遍に大雑把な流れを追いかけていくとき、何だか唐突に出来事が始まって、それが数珠繋ぎになってその「国(地域)」を形作っている、と単純に思っていたかもしれない。少なくとも、現代の日本で語られまた教えられる「歴史」はそんなレベルを超えてはいないようである。

そもそも人類が「人間」という生き物として社会を形成し始めたのはいつのことだろう。言葉を生み出し何かを伝えていく。芋を洗って食べる猿の逸話で語られるように、少しずつ共通の文化が生まれ、伝播していく。「歴史」として語られる以前よりそうやって「人間」としての共通の事柄が蓄積されていったのだろう。所謂「文明」以前。先史時代より脈々と。
例えば縄文時代の遺跡から得られる情報は、当時の人々が現在と何ら変わりない社会的常識を持って生活を営んでいたことを伝えてくる。それは現代の常識から想像するからという盲点もあるが、すでに長きに渡り蓄積されてきた経験則を生かした生活の知恵を存分に発揮しているのがわかる。
そしてその文化は自然に各集落に湧いたものではない。少しずつ伝えられて広まったものだ。そう、人々の移動とともに。
今でこそ津々浦々にあまねく人々の生活があるが、元はやはり何処からか移住してきた人々であるに違いない。日本列島は大陸と地続きであったことまあれば海底だったこともあるのだから。陸づたいに、海を渡り、少しずつ移動しながら広がっていく私たちの先祖。まず「移動」ありきである。
移動と言って思い浮かべるのは、「道」による交通網だろう。古くから人々の通う道は街道として今に残っている。多くの人々が往来し、種々の文化を伝えてきた。しかし道路を切り開くのは簡単なものではない。ましてこの国は島国で平地が少なく山がすぐに海に迫る地形である。まともな道路交通網など出来る以前から人々の往来はあるのに…。その答えとなるのが水運なのだった。

本書は歴史家・網野善彦氏と考古学者・森浩一氏の3日間に渡る対談をまとめたもの。この一筋縄でいかない2人の碩学は、移動手段、そして色々な「モノ」を運ぶ手段としての東国の馬・西国~北周りの船と、それを駆使した人々の営みを、その豊かな知識と想像力でもって体系付けていく。通り一遍の歴史、為政者の側からしか見られない偏った歴史観をうっちゃって、地に着いたその土地に連綿と伝わってきた事象から、まるで記憶を呼び起こすように人々の生活が甦ってくるのだ。「語られなかった歴史」の中にある真実。読み進むにつれワクワクしてくる。そのあたりが「網野史観」のファンの多さでもある。

「歴史」とは実は作られた物語である。脚色やねつ造が無いなどと誰も言えないだろう。しかし今に繋がる市井に伝わるものは、決して作られた物語だけではない。人々が日々生活しながら伝えてきたもの。そんな日常の積み重ねを紐解く、民俗学のようでもあるが、歴史と言う時間の縦糸に人々の移動・コミュニケーションという空間の横糸が絡み合って「人間」の歩んできた道、ひいては「ひとはこれからどこへ行くのか」という立体的な考察へと果てしなく広がっていく。
人間の歴史とは、決して単純な数珠繋ぎの一本道ではないのだ。


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